主はマタイ5章43節で古代のイスラエルの人々に、「あなたたちは『隣人を愛し、敵を憎め』と教えられているが、〜」と仰せになった。シラ17章26節は、神への立ち帰りを妨げ罪への誘いとなる「忌まわしいもの」に対し、「憎みに憎め」とまで教えるが、これは偶像崇拝(異教礼拝)と関係している。
【追記】
マタイ1章10節で主の系図にあるマナセは、賢君だった父とは正反対の、歴代でも最悪級の暗君の一人だった。国は乱れ、そこに乗じたアッシリアの侵略を受け、マナセはバビロンへ足枷付きの状態で連行されたが、今の自分の惨めな境遇は全て自分自身の悪が原因だと気づき主に立ち帰って帰国を許された。
(注)別エントリー「試論:『バビロンへの連行』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5695
マタイ5章43節で主は、「『隣人を愛し、敵を憎め』と教えられている。しかし、〜」と仰せになった。隣人愛の掟はレビ19章18節に由来する。「敵を憎め」の方の由来は「主よ、あなたを憎む者をわたしも敵とみなし憎む。敵に屈しはせず、とことんわたしも憎む」(詩編139編21節以下)である。
ダビデは詩編139編21節〜22節で「敵」を憎むことを神なる主に誓ったが、この場合「敵」とは「あなたを憎む者」すなわちサタン(悪魔)である。一方、主イエス・キリストが「敵」を愛することをお勧めになる時、その場合「敵」とは「悪人」(マタイ5章39節、45節)すなわち同じ人間を指す。
(注)別エントリー「試論:『敵を愛(=尊重)する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14507