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試論:「神の国」「主の日」違いを140文字以内で

主イエスはルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と教えられたが、アモス5章18節は「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論;『天の国』は今どこに??を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;『実現の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9074

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;『天地が消え失せるまで』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

旧約であれ新約であれ聖書で「見る」という表現が用いられる場合、単に「目で見る」ばかりではなく、「心で悟る」「理解する」等も含む。マタイ24章30節「地上の全ての民は人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」は、黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」に対応している。

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
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「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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マタイ24章30節は「人の子は天の雲に乗って」と訳されるが、ギリシア語本文には日本語の「乗る」に当たる動詞はない。全能の神なる主は移動の際に乗物は不要で「雲」は神の現存を象徴するに過ぎないが、『西遊記』が有名な日本では孫悟空の雲と変わらぬかの如き誤解を招いている可能性が大である。

出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。

マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347

出エジプト記24章にモーセ一行が「神を見た」とあるが、実際に御姿を見たわけでなく、足台を見たことによって上におられる神を「見た」のである。「心の清い人は幸いである。その人は神を見る」の「見る」も認識するという意味を含むが御降誕の夜、羊飼いたちはマリアやヨセフと実際に、御姿を見た。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859