黙示録12章の「女」とは何を指すのか」カテゴリーアーカイブ

旧約聖書の聖櫃と新約聖書の聖母マリア

(以下、聖書の日本語訳はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)

【1】ルカ福音書1章の聖母とサムエル記下6章の神の櫃──その到来の対比

◯ルカによる福音書1章34節〜35節、39節〜40節
「マリアはみ使いに言った、『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに』。み使いは答えた、『聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。それ故、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる』」
「そのころ、マリアは旅立って、急いでユダの山地にある町に向かった。そしてザカリアの家に行き、エリサベトに挨拶した」

◯サムエル記下6章2節〜4節
「ダビデはバアレ・ユダから神の櫃を運び上げようと、一緒にいた兵士全員とともに出かけた。その櫃には名がつけられていた。その名は『ケルビムの上に座す万軍の主』である。彼らは神の櫃を真新しい車に乗せ、丘の上のアミナダブの家から運び出した。アミナダブの子ウザとアフヨが神の櫃を乗せた車を操った。アフヨは櫃を先導していた」

【2】「どうして、わたしの所にお迎えできようか」

◯ルカによる福音書1章43節
「わたしの主の御母(おんはは)が、わたしのもとへおいでくださるとは、いったい、どうしたことでしょう」

(注)エリサベトはルカ1章43節においてマリアのことを「わたしの主の御母(おんはは)」と呼んだが、この場合の「わたしの主」とは当然、「神」と同義語である。カトリック教会がマリアを「神の母」と呼ぶ根拠がここにある。この言葉はエリサベトが自分勝手に言ったのではなく、「聖霊に満たされて…言った」(ルカ1章41節〜42節)ものであり、むしろ神がエリサベトに語らせたと見なしてもよい表現であって、神からのお墨付きを得た(神への信仰に合致している)適切な言い回しである。

◯サムエル記下6章9節
「その日、ダビデは主を恐れて言った、『どうして、主の櫃をわたしの所にお迎えできようか』」

【3】洗礼者ヨハネとダビデ王は、ともに喜びおどっていた

◯ルカによる福音書1章41節、44節
「エリサベトがマリアの挨拶を聞くと、胎内の子が躍り」
「あなたの挨拶の声が、わたしの耳に入ったとき、胎内の子が喜び躍りました」

◯サムエル記下6章5節、14節
「ダビデとイスラエルの家の全員は、糸杉で作ったあらゆる楽器、琴、竪琴、タンバリン、鈴、シンバルに合わせて、主の前で喜び踊っていた」
「ダビデは亜麻布のエフォドをまとい、主の前で力の限りくるくる踊った」

【4】聖母と神の櫃は、ともに高らかな歓喜の叫びで迎えられた

◯ルカによる福音書1章41節〜42節
「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに叫んで言った、『あなたは女の中で祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています』」

◯サムエル記下6章15節
「ダビデとイスラエルの家はみな歓声をあげ、角笛(つのぶえ)を響かせながら、主の櫃を運び上げた」

【5】聖母と神の櫃は、ともにその場所に三か月間留まった

◯ルカによる福音書1章56節
「マリアはエリサベトのもとに三か月ほど滞在した後、家に帰った」

◯サムエル記下6章11節
「こうして主の櫃は、ガト人オベド・エドムの家に三か月の間留(とど)まった」

【6】その到来を迎え入れる者には、神からの特別な祝福が与えられている

◯ルカによる福音書1章13節〜15節、57節〜58節
「み使いは言った、『恐れることはない、ザカリア。あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。あなたは喜び楽しみ、多くの人々もその誕生を喜ぶ。その子は、主の前に偉大な者となるからである』」
「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベトに大きな憐れみをおかけになったことを聞いて、ともに喜んだ」

◯サムエル記下6章11節
「主はオベド・エドムとその家を祝福された」

【7】聖母とダビデ王は、ともに喜びのうちにも自分が小さい者であることを忘れなかった

◯ルカによる福音書1章46節〜52節
「そこでマリアは言った、『わたしの魂は主を崇め、わたしの霊は、救い主である神に、喜び躍ります。主が、身分の低いはしために、目を留めてくださったからです。そうです、今から後、いつの時代の人々も、わたしを幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、わたしに偉大な業を行われたからです。その名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕をもって力ある業を行われ、心の思いの高ぶった者を、追い散らされました。権力をふるう者をその座から引き下ろし、身分の低い者を引き上げられました』」

◯サムエル記下6章12節、16節、21節〜22節
「『主がオベド・エドムとそのすべてのものを、神の櫃の故に祝福された』とダビデに知らされた。そこでダビデは行って、喜びのうちに、神の櫃をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた」
「主の櫃がダビデの町に入ったとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていたが、ダビデ王が主の前で跳ねたりくるくる踊ったりしているのを見て、心の中で彼を軽蔑した」
「ダビデはミカルに言った、『お前の父やその家の誰でもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの君主に任じてくださった主の前なのだ。わたしは主の前でならこれからも踊る。今までよりもさらに見下され、自分の目に下賤に見える者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは尊敬されるだろう』」

【8】預言者エレミヤは、バビロン捕囚の前に聖櫃(神の櫃)を誰にも知られない場所に隠した

◯マカバイ記二2章4節〜8節
「この預言者は、神のお告げを受け、かつてモーセが登り、神の遺産の地を見た山に赴く時に、天幕と聖櫃を携えて、自分に従うように命じました。エレミヤはそこに着き、人が住めるような洞穴(ほらあな)を見つけ、そこに幕屋と聖櫃と香壇とを納め、入り口を封じました。彼とともに行った何人かが、道標(みちしるべ)を作るために戻ってみましたが、洞穴を見つけ出すことができませんでした。このことを知ったエレミヤは、彼らを咎(とが)めて言いました、『その場所は、神がその民を再び集め、慈悲が示されるまでは、知られることはないだろう。しかし時がくれば、主はこれらの物を示されるだろう。その時、モーセの場合のように、また神殿を厳(おごそ)かに聖別することを祈ったソロモンの場合のように、主の栄光と雲が現れるだろう」

4節の「かつてモーセが登り、神の遺産の地を見た山」とは、民数記や申命記に登場する「ネボ山」のことである(申命記32章49節「エリコの向かいにあるモアブの地のアバリム山脈のネボ山に登り、わたしがイスラエルの子らに所有地として与えるカナンの地を見渡せ」)。

◯ヨハネの黙示録11章19節
「天にある神の神殿が開かれ、そこに神の契約の櫃が見えた」

マカバイ記二の記述以降、聖書の中で消息が途絶えていた「神の櫃」つまり聖櫃が、黙示録11章の最後の節において再び登場した。

◯ヨハネの黙示録22章17節
「霊と花嫁が言う、『来てください』。これを聞く者も、『来てください』と言うがよい」

聖母マリアは聖霊の花嫁であり、また主イエス・キリストの花嫁が教会である。また当然だが聖母マリアは教会の母でもある。その意味では黙示録12章の「女」とは教会というよりは救い主の母その人を指すと考えるべきである。まことの「生ける神のみ言葉」と言うべき主イエス・キリストを生んだ母である聖母マリアは、当然まことの「神の契約の櫃(ひつ)」と言える。

【9】黙示録12章:イエスを産んだ「女」とは

(以下のギリシア語のうち、イザヤ書の訳語は七十人訳聖書によります。またギリシア語はラテン文字転写して表記します)

◯創世記3章15節
「わたしはお前と女の間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意をおく。彼はお前の頭を踏みつけ、お前は彼のかかとに咬みつく」

◯イザヤ書7章14節
「見よ、おとめが身籠って男の子を産み(texetai)、その名をインマヌエルと呼ぶ」

◯マタイによる福音書1章16節
「キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった」

◯マタイによる福音書1章21節
「彼女は男の子を産む(texetai)。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである」

◯マタイによる福音書1章23節
「見よ、おとめが身籠って男の子を産む(texetai)」

◯マタイによる福音書1章25節
「マリアが男の子を産む(eteken)まで、ヨセフは彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた」

◯マタイによる福音書2章2節
「お生まれになった(techtheis)ユダヤ人の王はどこにおられますか。わたしたちはその方の星が昇るのを見たので、拝みに来ました」

◯ルカによる福音書1章30節〜33節
「恐れることはない、マリア。あなたは神の恵みを受けている。あなたは身籠って男の子を産む(texē)。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者となり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主は、彼にその父ダビデの王座をお与えになる。彼はヤコブの家をとこしえに治め、その治世は限りなく続く」

◯ルカによる福音書2章6節〜7節
「ところが、二人がそこにいる間に、出産(tekein)の日が満ちて、マリアは男の初子を産んだ(eteken)」

◯ヨハネによる福音書16章21節
「女は、子を産む(tiktē)とき、苦しい思いをする。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれた喜びのために、もはや産みの苦しみを忘れてしまう」

◯ヨハネの黙示録12章1節〜2節
「また、天に大きな徴が現れた。それは、太陽をまとった女で、月がその足の下にあり、頭上には十二の星の冠を戴いていた。女は身籠っており、子を産む(tekein)苦しみと痛みのために泣き叫んでいた」

◯ヨハネの黙示録12章4節〜5節
「そして竜は、子を産もう(tekein)としている女の前に立っていた。産んだら(tekē)すぐ、その子を食い尽くすためであった。女は男の子を産んだ(eteken)。この子は鉄の杖をもってすべての国民を治めることになっていた。この子は、神のもとに、その玉座に引き上げられた」

◯ヨハネの黙示録12章9節
「こうして、巨大な竜は投げ落とされた。あの太古の蛇、サタンとも悪魔とも呼ばれたもの、全世界を惑わすものは地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」

◯ヨハネの黙示録12章13節、17節
「竜は、自分が地上に投げ落とされたのを知って、男の子を産んだ(eteken)女を追いかけた」
「竜は女に対して激しく怒り、女の子孫のうち残りの者たち、すなわち神の掟を守り、イエスの行われた証しを保持している人々に戦いを挑むために出ていった」

〔注〕マタイとルカの両福音書において、「産む」を意味するギリシア語の動詞“tiktō”が用いられる場合、産まれる子が主イエス・キリストである文脈では、当然ながら主語は聖母マリアということになる。ならば、黙示録12章において、同じ動詞“tiktō”が五か所に用いられ、そして産まれる「男の子」(5節)が主イエス・キリストであるとするならば、主語となる「女」もまた聖母マリアであると解釈するのが最も自然である。

【考察】

ヨハネの黙示録12章17節には、「竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者たち、すなわち神の掟を守り、イエスの行われた証しを保持している人々に戦いを挑むために出ていった」と記されている。
この部分と、創世記3章15節の「わたしはお前と女の間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意をおく」を読み比べれば、

“女”=“主イエス・キリストの母マリア”

“女の子孫”=“主イエス・キリスト”+“神の掟を守り、イエスの行われた証しを保持している人々”

であると、おのずと明らかになる。

ところでヨハネの黙示録12章の「女」に関して、これは教会のことだとする解釈が、カトリック教会においても存在する。
確かに、教会はサタンと決定的に対立すべきであるし、また、主イエス・キリストに対する教会の信仰にあずかることによって、わたしたちは神の子となることができる(ヨハネによる福音書1章12節、ガラテヤの人々への手紙4章5節、エフェソの人々への手紙1章5節など)。

しかし主イエス・キリストは、教会から生まれたわけではない。それは絶対にありえない。
たとえ比喩的表現であれ、その考えは成立しない。
主イエス・キリストを「産んだ」のは、第一義的には当然ながら母マリアであって(マタイによる福音書1章16節、同1章21節、ルカによる福音書1章31節〜33節、同2章6節〜7節)、教会ではありえない。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカによる福音書1章38節)というマリアの神に対する承諾の意思表示それから絶対的な従順がなければ、主イエス・キリストひいては教会そのものも、この世にはもたらされなかったのである。
よって、厳密に言えば、ヨハネの黙示録12章の「女」とは、「鉄の杖ですべての国民を治める」主イエス・キリストを「産んだ」その母マリア、聖母以外にはありえない。

そもそも、エフェソの人々への手紙1章22節には「そして、すべてのものをその足元に従わせ、すべての上に立つ頭(かしら)として、キリストを教会にお与えになりました」と書かれており、また続く23節には「教会はキリストの体です」と書かれているから、教会が主イエス・キリストを生むという考え方はやはりどこか不自然で、本末転倒と言わざるをえない。

またコロサイの人々への手紙1章18節にも、「御子(おんこ)は教会という体の頭(かしら)」「御子は初めであり」「彼はすべてにおいて第一の者となられた」と書かれている。

聖母マリアは聖霊の花嫁であり、主イエス・キリストの花嫁が教会である。また、ここまでの議論でも示された通り、聖母マリアは教会の母でもある。
その意味では、黙示録12章の「女」とは教会というよりは救い主の母その人を指すと考えるべきである。

ヨハネの黙示録12章の「女」が聖母であるならば、同じように創世記3章15節の「女」についても、やはり主イエス・キリストの母マリア、聖母以外にはありえないということになる。
なぜなら、前述した通り、ヨハネの黙示録12章とは創世記3章15節をより詳しく説明している内容のものだからである。

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/52

さて、カトリック以外の人々から、「カトリックが創世記3章15節の『女』をイエスの母マリアにあてはめて論じようとするのはおかしい」と批判されることが、キリスト教の歴史上、たびたび起こった。
けれども創世記の原罪の物語を、3章までだけでなく4章までを一連のものとして読み進めていけば、3章15節の主なる神の御言葉の中の「女」がエバには決してあてはまらないことは、おのずと明らかとなる。
「初子」カインという大罪人の存在それ自体が、「女」がエバではないということを証明しているのである。
ヨハネの第一の手紙の3章10節〜12節そして知恵の書10章3節は、カインが最終的に“神に属する者”ではなく“悪に属する者”となってしまったことを、明らかにしている。

(注)別エントリー「教義『無原罪の御宿り』の聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/52