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試論:「母と子を保護する男性」を140文字以内で

主なる神はエバをアダムの「助け手」として準備された。御父である神は、「独り子」である御子の母となる女性のために、「助け手」となる男性を準備された。へりくだりそのものの「主のはしため」マリアに相応しい人とは主を畏れる人(箴言22章4節)つまりディカイオス(マタイ1章19節)である。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

(注)別エントリー「試論:『主のはしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5643

(注)別エントリー「試論:マリアの賛歌とへりくだりを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6381

(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6397

【追記】

マタイ1章19節は主の養父ヨセフをディカイオスと表現した。それは同25章37節では最後の審判で救いにあずかる「主に従う人」を意味する。カトリック教会が説く「聖家族」の概念は事実上、「ヨセフはイエスとマリアに対し、いついかなる時も善意で接しようと努めた」という事柄と表裏一体である。