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試論:イエスの両親と最後の審判を140文字以内で

主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれるが、25章の「最後の審判」においては「正しい人」は永遠の命が確約された人である。ルカ1章42節で母マリアは「女の中で祝福された方」と呼ばれるが、マタイ25章34節で「祝福された人」は同じく永遠の命が確約された人である。

(注)別エントリー「試論:『神の母』聖書的根拠を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はマタイ6章33節で、まず神の国と神の義(ディカイオシュネー)を求めるよう教えられた。1章19節はヨセフを義人(ディカイオス)と呼ぶが、25章の最後の審判の箇所(37節、46節)でディカイオスとは永遠の命を確約された存在であることが説明されており、ヨセフが模範的存在だと分かる。

(注)別エントリー「試論:『ディカイオスとは』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを義人(正しい人)と呼ぶが、この言葉は25章の最後の審判では永遠の命を確約された人を指す。ヨハネ福音書は、真理の神なる主イエスが、十字架の死によって悪魔(サタン)の〔罪と死による〕支配を終わらせ、人々を自由にした(解放した)結果を、永遠の命と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『一粒の麦もし死なずば』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『一粒の麦』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ6章45節を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
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主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。