試論:「御教えに言及しない人」を140文字以内で

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴として、キリスト教を語っているようでいて実は世間に通じる話題ばかりで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を巧妙にそして頑に、事実上無視していることを挙げる。「神の御言葉」として来られた方の実際の仰せに言及しない人の言説など意味がない。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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マタイ6章14節の主の御言葉「あなたが他人を容赦するなら、天の父もあなたの過ちを容赦される」を聞いた当時のヘブライ人はすぐ詩編18編21(20)節以下を連想し、また「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、一ペトロ5章5節)も連想したはずである。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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