マタイ1章19節はヨセフに対してディカイオス(正しい人、義人)というギリシア語を用いる。この語は同25章の最後の審判にも登場し(37節、46節)、相手の困り事を親身になって解決する人を指し、相手の弱みに付け込んで神の御目に適わぬことを行うような者では絶対になかったことを示唆する。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
マタイ1章19節は、ヨセフはディカイオス(正しい人、義人)だったので婚約者のことを表沙汰にするのを望まずひそかに縁を切ろうとしたと記す。ディカイオス(同25章37節、46節)とは、隣人に悲しい思い・はずかしい思いをさせないために、努めて忍耐強く配慮してあげようと骨を折る人である。
マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。
(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ1章19節のギリシア語本文は聖ヨセフを「ディカイオス」(新共同訳では「正しい人」)と表現するが、古代ギリシア語詩編111(112)編6節は、「ディカイオス(新共同訳では「主に従う人」)はとこしえに揺らぐことがなく彼はとこしえに記憶される」として最大級の賛辞で、表現している。