マタイ1章19節はヨセフをディカイオス(正しい人)と呼ぶ。古代ギリシア語訳箴言21章26節「ディカイオスは惜しまずに与える」マタイ5章42節「何かを求める人には、与えなさい。何かを借りようとする人に、背を向けてはならない」ルカ6章38節「あなたたちは自分の量る秤で量り返される」。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
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【追記】
マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。
(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。
主はマタイ6章33節で、まず神の国と神の義(ディカイオシュネー)を求めるよう教えられた。1章19節はヨセフを義人(ディカイオス)と呼ぶが、この語は神の義を体現する人を指す。相手が幼子や女性だからといって馬鹿にした態度を取る男性もいるが、その点、ヨセフに関しては心配する必要がない。
(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
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マタイ1章19節のギリシア語本文は聖ヨセフを「ディカイオス」(新共同訳では「正しい人」)と表現するが、古代ギリシア語詩編111(112)編6節は、「ディカイオス(新共同訳では「主に従う人」)はとこしえに揺らぐことがなく彼はとこしえに記憶される」として最大級の賛辞で、表現している。
マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。
マタイ1章19節は主の養父ヨセフを義人と呼び、エゼキエル18章6節では義人の条件の一つに生理中の女性に近づかないと挙げる。女性特有の心身の辛さに配慮し、女性に余分な負担を加えぬよう自分を律することができる男性こそ義人である。女性を蔑まずリスペクトの対象にできる男性こそ義人である。
ダビデは神からの霊感を受け詩編15編で、《神の家》で《神の同居家族》となる人々について、「親しき仲にも礼儀あり」という観点で言葉と行いの両面において、(無垢という意味で)完全な神の御目にかなった人々であると表現した。マリアとヨセフはそれに該当しなかったなどと、誰が言えるだろうか?
(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
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「神の家」で主に奉仕する女性が男性と「ともに寝る」ことは、主に対して罪を犯す悪事であった(サムエル記上2章22節〜25節)。それゆえに当然、真の意味での「神の家」である主イエスのお住まいの「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)マリアは、夫ヨセフと「ともに寝る」ことがなかった。
(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
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旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だが、救い主(8節)がお生まれになり(9章5(6)節)、民の「永遠の父」である方は「みどりご」として来られた。養父とはいえ人間が「父」となるなどヨセフにとって太陽が西から昇るどころではなかったが彼は責務を全うした。
(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
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今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)