「敵を愛する」???

主イエスは敵を愛するよう命じられたが既にそれはモーセの律法に存在した。出エジプト23章4節〜5節「あなたの敵の牛やろばがさまよっているのを見たなら、その家畜を敵のところへ帰してやりなさい。あなたを憎む者のろばが重荷の下敷きになっているのを見たなら、その者と共にろばを助けなさい」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ5章44節で「敵を愛する」ように教えられたが、のちに具体例としてルカ10章30節以下で「善きサマリア人のたとえ」をお話しになった。このたとえは、当時ユダヤ人とサマリア人とが実際には、交流すら避けるほど不仲の間柄であった(ヨハネ4章9節等参照)という状況を前提にしている。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ5章43節で主は、「『隣人を愛し、敵を憎め』と教えられている。しかし、〜」と仰せになった。隣人愛の掟はレビ19章18節に由来する。「敵を憎め」の方の由来は「主よ、あなたを憎む者をわたしも敵とみなし憎む。敵に屈しはせず、とことんわたしも憎む」(詩編139編21節以下)である。

ダビデは詩編139編21節〜22節で「敵」を憎むことを神なる主に誓ったが、この場合「敵」とは「あなたを憎む者」すなわちサタン(悪魔)である。一方、主イエス・キリストが「敵」を愛することをお勧めになる時、その場合「敵」とは「悪人」(マタイ5章39節、45節)すなわち同じ人間を指す。

主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。

マタイ5章39節の原文の表現を調べると、主が禁じたのは悪人と同じ次元(行為や目的)の報復や応戦であり、逃れる手段があれば用いてもよく(ヨハネ8章59節)言説による反論もよい(同18章23節)。もちろん女性が暴行から逃れる目的で男性に抵抗するのもよい(同じ目的の応戦に該当しない)。

主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。

ヨハネ18章で主が逮捕されて大祭司のもとで尋問を受けた際、「返事の仕方」のことで大祭司の「下役」に難癖をつけられ、主は平手打ちを受けた。もちろん主は不当な暴力に対して暴力で返すことなどなさらなかった(マタイ5章39節参照)が、不当な言い掛かりに対して主張すべき事柄は主張なさった。

モーセの律法には「目には目」という表現が登場するが、これはあくまで公的な裁判における刑罰の基準を示すものであって、その目的はイスラエルの民に悪事が蔓延するのを防ぐ(申命記19章19節以下)ためであり、私的な復讐の基準ではなく元来、復讐は律法で許されていない(レビ記19章18節)。

箴言11章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

主はマタイ5章22節で「怒ってはならない」と仰せになった。ヤコブ1章20節は「人の怒りは神の義を実現しない」と記し、同19節は「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい」2章13節では「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」と警告している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言28章14節は「いつも気を配っている者は幸いであるが、周囲に厳しい者は苦難に陥る」と記し、神に対しても隣人に対してもどんな物事に対しても注意深く慎重に接する人はそうそう困難に遭うことはないが、万事に頑固で当たりの強い者はそれだけ様々な面倒事に巻き込まれ易いものだと説いている。

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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