「人類の長子」主イエス・キリスト

【問】人間イエスは、「人類の長子」ですか?
【答】新約時代においてはローマ5章12節以下の通り、主イエスは「第二のアダム」という位置付けであり、同8章29節は「御子が多くの兄弟の中で長子となられる」、コロサイ1章18節は「御子は最初の者、死者の中から最初に生まれた方」と表現します。

【問】コロサイ1章18節が御子を「死者の中から最初に生まれた者」と呼ぶ理由とは?
【答】御子は十字架の死の後、御自身の「復活の体」の創造の際に「新しい天・地:エルサレム」(イザヤ65章17節以下)も創造され、待ち続けていた旧約の義人たちにも「復活の体」を与えられ誕生させたからです。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
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【問】主イエスは《完全な神》が《完全な人間》を担われたということですが、主イエスとは信者から見てどんな存在ですか?
【答】主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)なので神としての主は「父」、人間イエスは「兄弟」(マタイ28章10節)つまり、「長兄」(ローマ8章29節参照)です。

(注)別エントリー「『完全な神』が『完全な人間』を担われた」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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【問】《神の御言葉》主イエスが人間になったとは、《神が人間を担われ(引き受けられ)た》と解釈すべきということですが、それでは、主イエスから見た人類とは、何になりますか?
【答】神の立場では「子」(マタイ9章2節)、人間の立場では(特に相手が信者なら)「兄弟」(同28章10節)です。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:主イエスと人類の関係を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる《神の御言葉》とは、《御自分で御言葉をお話しになる神》、すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章1節は主イエス・キリストを「言(ことば)」と呼び紹介する。これは《天使や預言者を介することなく、御自分で直接人々に御言葉をお話しになる神》を意味し、「イエス・キリストなんか本当は実在しなかった」と言い立てる人々に対しては、主が残された御言葉それ自体がその存在証明となる。

(注)別エントリー「試論:『主が求められるものは』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは黙示録22章13節で「わたしはアルファでありオメガ」「最初の者であり最後の者」「初めであり終わり」と自称された。これはイザヤ44章6節に対応し、同節は「わたしをおいて神はない」と続く。ヘブライ2章10節以下は「万物の源であり目標」「救いの創始者」「一つの源」と主を呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『真理』と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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多くの人が黙示録20章の記述を誤解し、キリストと共に世を支配する「千年王国」を夢見たが、他方ヨハネ18章36節で主は御自分の王国(バシレイア)は世に属さないと確言された。「王」(マタイ25章34節)であるキリストと共に支配するとは、悪魔の罪と死による支配から自由になることである。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「真理は罪と悪と死から自由にする」も参照のこと。
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黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
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