【問】ヨハネ16章10節の「義について」の「義」って、何?
【答】主イエスはマタイ21章32節で「ヨハネ(=洗礼者)が『義の道』を示したのに」と仰せになり、御自身を「義の道」と表現されました。ヨハネ14章6節では、御自身を「道」と呼ばれました。「義について」の「義」も主御自身です。
【問】「義」が主イエス御自身ならば「義についての世の誤り」とは何ですか?
【答】主イエスの御昇天の後、俗世間は「イエスがいなくなれば弟子たちは目標を見失い、イエスが起こした活動は自然消滅する」と高を括るだろうが、そうはならないことを主は既に予告されていました(ヨハネ14章19節)。
【問】「しばらくすると世はもうわたしを見なくなるがあなたたちはわたしを見る」? どういうこと?
【答】ヘブライ人は「見る」を「認識する」「理解する」等の意味でも用い、「いずれ世はわたしのことを忘れてしまうが、あなたたちはいつまでもわたしのことを認識し続け、また理解し続けるだろう」。
【問】ヨハネ8章56節「アブラハムはわたしの日を見て喜んだ」の意味は?
【答】古のヘブライ人は「意味を理解してイメージを思い浮かべる」ことを「見る」と表す場合があり、出エジプト記24章10節にはモーセの一行がイスラエルの神を「見た」とありますが実際には、「足台」だけを目撃しました。
出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。
(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684
出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが神の御姿を実際に見たのでなく、足台(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって上におられる神を認識したのである。古代のヘブライ人の理解では、「神を見る」とは、神の御姿をじかに目の当たりにすることを意味していなかった。
旧約であれ新約であれ聖書で「見る」という表現が用いられる場合、単に「目で見る」ばかりではなく、「心で悟る」「理解する」等も含む。マルコ13章26節「地上の全ての民は人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」は、黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」に対応している。
マルコ13章26節は「人の子は天の雲に乗って」と訳されるが、日本語の「乗る」に当たる動詞はギリシア語本文にはない。全能の神なる主は移動の際に乗り物は不要で「雲」は神の現存を象徴するに過ぎないが、『西遊記』が有名な日本では孫悟空の雲と変わらぬかの如き誤解を招いている可能性が大きい。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888
(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12476