【問】申命記27章18節「目の見えぬ人を迷ったままにする者はわざわいだ」とは?
【答】古代のヘブライ人は「見る」という表現で、視力以外にも認知能力全般や理解力や判断力をも表現しました。視力は問題なくとも高齢者や遠方から来て地理に疎い人も、「目の見えぬ人」に含まれる蓋然性があります。
【追記】
レビ19章18節は隣人愛の掟を説くが、同章では隣人愛に反する諸行為を禁じる。14節は耳の不自由な人の耳元で聞こえないのをいいことに悪口を言う行為と目の不自由な人の歩いて行く方向に物を置いて邪魔をする行為とを禁じ、申命記27章18節は迷っている人に対して知らん振りをするのを禁じる。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884
マタイ1章5節は、ヨシュア記に登場するエリコの遊女ラハブがルツ記に登場するボアズの母親であったと記す。ルツ記を読めば一目瞭然だが母親ラハブが息子に何を言い聞かせて育てたか、それは「相手が自分よりも弱い立場で自分の方が優位にあるように思えても、決して相手の弱みに付け込むな」である。
(注)別エントリー「試論:『放蕩息子とナオミ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18107
旧約であれ新約であれ聖書で「見る」という表現が用いられる場合、単に「目で見る」ばかりではなく、「心で悟る」「理解する」等も含む。マタイ24章30節「地上の全ての民は人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」は、黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」に対応している。
(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684
(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744