試論:「神殿で商人を追い出す」を140文字以内で

過越祭には過越の小羊が不可欠だった。祭のために世界中から都に集まる古代のユダヤ人は、羊を連れて旅するわけにもいかず羊を現地調達した。世界中のユダヤ人からも集められた神殿税は過越の小羊の準備にも当てられたが、それの度が過ぎて神殿の境内が家畜市場の様相を呈していた有様に主は憤られた。

(注)別エントリー「試論:『身代わりの羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ2章17節は詩編69編10(9)節を引用し、

「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」

と記す。「あなたの家」は神殿を指し、「熱意が食い尽くす」もヘブライ語由来の表現で、

「あなたの家を思う熱意がわたしを突き動かす」
「わたしはあなたの家を思う熱意に駆られる」

の意味合いである。

《体も家も自身にとっての住まい》(ヨブ4章19節参照)として「体」と「家」とを重ねるヘブライの世界観を踏まえ、主イエスは、《人となった神の子である自身の体》を《神の家=神殿》に重ねて「三日で建て直して見せる」と宣言されたが、イエスを冒瀆者として葬り去ろうとした人々に通じなかった。

創世記の2章と3章では、人間は「土(塵)」に由来し「土(塵)」に還る存在とする。創世記の記述に基づきヨブ記4章19節は「人は塵の中に基を置く土の家に住む者」と記す。ここでは人間の体を「土の家」と表現し、古代のヘブライ人が「(人間の)体」と「家」とを重ねて考えていたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『土』と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

一コリント15章は、

《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》

とを、

「地上の体」と「天上の体」

「地上の命の体」と「霊の体」

等と表現する。

ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、

コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、10章25節では「復活」「命」とも自称された。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ21章14節には主が神殿の境内で目や足の不自由な人々をいやされたとあるが、サムエル下5章8節の故事により目や足の不自由な人々は神殿に入ることを禁じられていた。神殿の人々は目や足の不自由な人々に警告を発したはずだが、主のいやしが瞬時であったためか、神殿側もなすすべがなかった。