試論:「永遠の命と義人の関係」を140文字以内で

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを義人(正しい人)と呼ぶが、この言葉は25章の最後の審判では永遠の命を確約された人を指す。ヨハネ福音書は、真理の神なる主イエスが、十字架の死によって悪魔(サタン)の〔罪と死による〕支配を終わらせ、人々を自由にした(解放した)結果を、永遠の命と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『一粒の麦もし死なずば』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『一粒の麦』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ6章45節を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ6章27節「人の子は、あなたたちに永遠の命へと至る食べ物を与える」35節「わたしがその命のパンである」イザヤ55章2節〜3節「わたしに聞き従うならば、あなたたちは良いものを豊富に享受するだろう。あなたたちはわたしの許に来て、それに耳を傾けて聞き従い、魂に命を得させなさい」。

ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
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主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

主は「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったが、ルカ10章では自分を「義化」(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対して、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっていることをお教えになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:隣人愛と『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『根』と『水』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されが、同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ17章3節で主は「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなた(=天の御父)とあなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ること」と天を仰いで話されたが、関連して一ヨハネ2章3節では「知る」とは《神の掟を守るという経験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことと説明する。

救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。