試論:「幼子のように」を140文字以内で

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(3節)また「自分を低くして子供のようになる人が天の国では一番偉い」(4節)と仰せになられ、「心を入れ替える」「自分を低くする」の二つが子供のようになるために必要な事柄であると説かれた。

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:エフェソ4章『新しい人』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌う際、以前から学んでいたはずである。

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
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主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ1章には「マリアの賛歌」があるが、内容は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と一致する。主の周囲でへりくだりがどれほど重視されていたかを、「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)という言葉が象徴する。

(注)別エントリー「試論:『主のはしため』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の理由を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖母マリアは真の聖櫃』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
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