試論:聖母マリアの終生童貞を140文字以内で

古代のイスラエルでは、神にささげられたと一度定まったものを、後から人間が自分の都合で私物化する行為は、神に対する重大な罪とみなされた(サムエル上2章、15章等)。ヨセフは出産後のマリアを「知る」ことがなかった。処女懐胎時に妻は既に「聖別」されていると、彼が認識していたからである。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
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【追記】

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の都市』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『偉大なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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福音書は主イエスの「兄弟姉妹」の存在を記すが、主は御受難の際、母を弟子ヨハネに託された。古代イスラエルでは師の死後その母の面倒を見るのは本来、弟子でなく遺族の責務である。ヨハネは自分の母を「母の姉妹」(ヨハネ19章25節)と記す。古代イスラエルで「兄弟姉妹」は親族全般を意味した。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
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跡取りを産む前に夫に先立たれたルツは、申命記25章の規定に従って亡き夫マフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズはマフロンとは父も母も異なっていた。古代イスラエルにおける「兄弟」という概念が、父や母を同じくする同胞のみならず、広く親族全般を含んでいたことは、歴然としている。

主の養父をマタイ1章19節はディカイオスと表現するが、古代ギリシア語訳ハバクク2章4節はディカイオスを高慢な者と対置する。主が「人の子は仕えるために来た」(マタイ20章28節)と仰せになり、聖母が「主のはしため」(ルカ1章38節)を自称する以上、ヨセフのへりくだりは必然と言える。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『高慢は破滅を準備する』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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ダビデは神からの霊感を受け詩編15編で、「神の家」で「神の同居家族」となる人々について、「親しき仲にも礼儀あり」という点で言葉と行いの両面において、無垢という意味で「完全」な、神の御目にかなった人々であると表現した。マリアとヨセフはそれに該当しなかったなどと、誰が言えるだろうか?

(注)別エントリー「試論:マタイ5章48節『完全』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスが荒れ野で悪魔から四十日間誘惑を受けた後、天使たちがイエスに仕えたと福音書は記すが、ならばヘロデの追及から逃れるためエジプトに向かった幼子に共に仕えていたマリアとヨセフは、神に対する忠実さという点で、全人類の中で最も天使に似た二人であった、と考えても特段の不自然さもない。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
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ルカ1章は、サムエル下6章の「神の箱」と受胎後のマリアとを重ね合わせる記述を行っている。真の「神の御言葉」を胎内に宿したマリアは、同じく真の「神の箱」だからである。ヨセフは「神の箱」に不用意に触れて死んだ男(サムエル下6章6節以下)を思い起こし、マリアに最大限配慮したはずである。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544