「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。
主から王に選ばれたサウルは、「特別に選ばれた人間は人一倍、主に忠実でなければならない」という初心を忘れ「主に選ばれた自分は特別扱いされているから、多少の過ちは大目に見てもらえるはず」と勘違いして主の信頼を失ったが、自分を律する心構えがないと誰しも同様の勘違いに陥り易いものである。
(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。
(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
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