試論:「わたしの骨の骨」?を140文字以内で

創世記2章23節は「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と記す。ヘブライ人は人間を「肉」(同6章)と呼び、また「骨」(箴言14章30節、エゼキエル37章)とも呼ぶが、「骨」と呼ぶ時は「骨の髄まで」の意味合いがあり、アダムはエバの姿を見て「この者は何から何まで自分と一緒だ!」と喜んだ。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル書『枯れた骨』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

創世記6章にある通り、古代のヘブライ人は人間それ自体を「肉」と表現したが、同様に「骨」も人間それ自体を指す場合があった。箴言14章30節「憐れみの心はその人自身にも周囲の人々にも『命(=幸福や安堵感や充足感)』をもたらすが、嫉妬心は骨の隅々に至るまでその人間全体を腐らせていく」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
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創世記2章22節はエバの創造を記す際、祭壇や都市を築き上げた時と同じヘブライ語を用いて、エバは細心の注意を払いつつ達成された主なる神の《苦心の作》でありエバの創造に「手抜かり」はないと示唆し、「女は男より劣るように創造されたからエバは蛇にだまされた」等の男尊女卑の発想を否定する。

(注)別エントリー「試論:エバの創造とマリアの誕生を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『幼子と女性を尊重する』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は、人間(人間それ自体。人間の一部ではなく、人間全体)を

「塵(土)」(創世記2章7節、3章19節)

「肉」(6章3節、12節)

と表現した。同様に

「骨」(2章23節)

も人間それ自体を指す。箴言16章24節「親切な言葉は骨を癒す」の「骨」とは、

「人々」

を意味している。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
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救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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