主イエスはルカ21章36節で、「目を覚ましていなさい」と仰せになった。パウロはこの言葉に続け一コリント16章13節で「信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」と記した。ペトロも第一の手紙5章8節でこの仰せの前に「身を慎んで」と付け加え、悪魔に対する警戒を説く。
(注)別エントリー「試論:引き締めるべきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はルカ12章37節で「主人が帰って来た時、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸い」と仰せになり、38節も同様である。43節では「主人が帰って来た時、言われた通りにしているのを見られる僕は幸い」とあるので、主の仰せを怠らず行うことが「目を覚ましている」ことだと分かる。
(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ25章で「十人の乙女」のたとえを話されたが、7章にある通り「賢い」は主の御言葉を聞いて行うことを指し、「愚かな」は御言葉を聞くだけで行わないことを指す。詩編45編8(7)節は「神に従うことを愛して、逆らうことを憎むあなたは、油を注がれた。神の喜びの油を」と歌った。
「ともし火」は信仰の賜物、「油」は日頃の行い、「店」は「油」が増すように補う主の御言葉、「愚かな乙女」は御言葉を聞き流して行わなかった人(マタイ7章26節)、「花婿」は主イエスを指す。信仰は本人が絶やさぬよう努力すべきで本人が何もせずとも不足分を隣人から分与される類の話ではない。
(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。