ルカ1章35節以下では、マリアに聖霊が降臨され彼女が神の御独り子を身籠るという事柄が告知された。従って《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節以下)すなわち《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》がマリアの内面をあふれんばかりに満たしていることには、疑問の余地などない。
(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564
【追記】
聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。
エリサベトはルカ1章43節においてマリアのことを「わたしの主のお母さま」と呼んだが、この場合の「わたしの主」とは当然「神」と同義語である。これこそカトリックが「神の母」とマリアを呼ぶ根拠であり、この言葉はエリサベトが「聖霊に満たされて言った」(ルカ1章41節〜42節)ものである。
(注)別エントリー「試論:『母の胎にいる時から』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13166
(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492