主はマルコ7章20節以下で、御自分が人々にお望みである「清さ」とは対極にあるもの、つまり「愛」そのものである御自分とは相容れないものについて「悪い思い」と総称され、具体的には、みだらな行い・盗み・殺意・姦淫・貪欲・悪意・詐欺・好色・ねたみ・悪口・傲慢・無分別などだと御説明された。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
マタイ4章では悪魔が実際に存在することが確言されている一方、15章19節では主は様々な悪が人間の心から生じるとお教えになった。マルコ7章20節以下でも主は、「悪い思い」が人間の心から生じることを詳しく御説明され、悪を抑える努力は人間の不断の意思にかかっていることをお教えになった。
キリスト教では「神は愛」(一ヨハネ4章8節)であり、従って神が否定される事柄はことごとく「愛の反対」に属しているが、あえてそれらを要約するならば、主が教えられた通り「悪い思い」(マルコ7章21節)と総称されている、心の中から生じるさまざまな悪い感情つまり多様な邪念だと考えられる。
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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ガラテヤ5章に見られる通り古代のヘブライ人は神に関連する事柄を「霊」、人間に関連する事柄を「肉」と表現して対比した。ヨハネ1章14節「神の御独り子は肉となられ」の「肉」も、人間を意味する。神の御独り子が神のままで「肉」としての全てを担われた(引き受けられた)ことを「受肉」と呼ぶ。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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ガラテヤ5章はヘブライ人特有の「肉と霊」の対比を用い、人間に由来する事柄を「肉」(創世記6章12節)、神に由来する事柄を「霊」と表現する。一ヨハネ4章16節「神は愛です」の具体的内容を、ガラテヤ5章22節以下では「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と記した。
(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言は肉となって』???を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネは第一の手紙の4章で「神は愛」と二度(8節、16節)記し、また自分の福音書で「神は御独り子をお与えになったほど、世を愛された」と記す。御独り子である主イエスの《愛の掟》は「他人からしてもらいたいことをあなたから他人にしなさい。これが律法と預言者」(マタイ7章12節)である。
一ヨハネ4章8節、16節「神は愛です」同5章3節「神を愛することとは神の掟を守ることですが、神の掟は、荷が重いものではありません」マタイ7章12節「あなたたちは、自分が他人からしてもらいたいことならどんなことであれ、自分の方から他人にしなさい。これこそが律法であり預言者である」。
一コリント9章21節「わたしは神の律法を持たないわけではなくキリストの律法に従っている」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは、何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」。
ガラテヤ6章2節「互いに重荷を担い合いなさい。それがキリストの律法を全うすることになる」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが、律法と預言者である」。
マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。
マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。