聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど謙遜そのものの姿勢で高慢心の欠片もなかった。受胎後でさえ「身分の低い、この主のはしため」(48節)と御自分をやはり「主のはしため」に位置付けておられた。
(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
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【追記】
聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?
ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女」の発言を否定しておらず、逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。
もし仮にそれが名もない女性だったとしても、人となられた神のために、ただただ手料理を三十年前後ものあいだ作り続けた女性がもしも実際に存在したとするなら、その一事のみをもって、その女性は全世界から崇敬を集めるに値する。まして彼女は、裁縫も洗濯も掃除もその他全ての神の家の家事を行った。
(注)別エントリー「試論:ナザレの聖家族を140文字以内で」も参照のこと。
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聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。
(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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受胎告知の際マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは、
《〔神からの〕とめどもない好意を得た》
の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると比類のないこの《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する、恵みである。
聖霊の結ぶ実はガラテヤ5章によれば「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」である。聖霊によって「神の御独り子」の母となった女性(ルカ1章35節)の内面がやはり「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」で満たされていると考えても、少しも不自然や矛盾はない。
(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ1章35節以下では、マリアに聖霊が降臨され彼女が神の御独り子を身籠るという事柄が告知された。従って《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節以下)すなわち《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》がマリアの内面をあふれんばかりに満たしていることには、疑問の余地などない。
新約聖書は聖霊の降臨と聖霊がもたらす色々の賜物について語る。しかし聖霊によって一人の女性が《人となられた神》を身籠ることは、空前絶後の出来事であった。本来は有限の存在であるはずの人間の女性が、無限の存在であるはずの神を宿された以上、神がその女性に授けられる賜物も、無限に違いない。
ルカ1章35節で聖霊がマリアに降臨することを表現するのと同じギリシア語で、使徒言行録1章8節は聖霊降臨を予告する。確かに五旬祭の日の聖霊降臨は「教会の誕生日」とも表現される偉大な出来事だった。しかしマリアへの聖霊降臨は神の御独り子を誕生させた。どちらが、より偉大な出来事だろうか?
(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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受胎告知に際し聖母マリアは「恵まれた方」と挨拶されたが、二ペトロ1章は信仰における神からの恵み(2節)の内容を5節以下で記し、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど、「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。
聖書は「主なる神」と「主なる神に忠実な人々の集団」との関係を夫婦関係(花婿と花嫁)にたとえる。箴言の最後の部分は知恵に満たされて神を畏れる女性を「有能な妻」と表現し、模範として示したが、「救い主の母」でありながら「わたしは主のはしため」とへりくだった女性を崇敬してはいけないのか?
主イエスはマタイ25章で「十人の乙女」のたとえを話されたが、7章にある通り「賢い」は主の御言葉を聞いて行うことを指し、「愚かな」は御言葉を聞くだけで行わないことを指す。詩編45編8(7)節は「神に従うことを愛して、逆らうことを憎むあなたは、油を注がれた。神の喜びの油を」と歌った。
(注)別エントリー「試論:『十人の乙女』を140文字以内で」も参照のこと。
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創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章で、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。
(注)別エントリー「『無原罪の御宿り』の意味するところとは」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。
(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
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救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。
(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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