主なる神が「燃える柴」の中よりモーセに語り掛けられた(出エジプト記3章)出来事から、古代イスラエルの信仰と歴史は大きく動き始めた。当然ヘブライ人にとって、「火」とは主の御言葉を連想させるものであり、「火」は主の御言葉の比喩として用いられた(エレミヤ5章14節、ルカ12章49節)。
(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主なる神が燃える柴の火の中から御言葉をモーセに語り掛けられたという出来事は、ヘブライ人にとって忘れ難い歴史上の一大事で、洗礼者の「聖霊と火による」に対し、当時のユダヤ人は「火」が何の意味かを直ちに理解した。しかし異邦人には全く意味不明でマルコ1章8節はこの理由から「火」を省いた。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:二種類の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエル人にとって、「火」が「主の御言葉」(エレミヤ5章14節等)や《人間に直に語り掛けられる神》を象徴するものであるのは周知の事柄だった。なぜなら、「燃える柴」の火の中から「わたしはある」という神がモーセに語り掛けられた、まさにそのことが彼らの信仰の原点だからであった。
主イエスが御自分の福音を仰せになった相手は、まず御自分がお生まれになった古代イスラエルの人々であった。古代イスラエルの人々の間でよく知られた比喩や慣用句を主も当然、しばしば用いられたが、これらは二千年後の「異邦人」には全く馴染みのない事柄であり、現代人による理解を難しくしている。
主イエスはルカ12章49節で神の御言葉を「火」にたとえられた(エレミヤ5章14節参照)。御言葉に繰り返し接することで人の心は火が金属を精錬する如く清くなり純度を高める(ゼカリヤ13章9節参照)が、この比喩は、申命記5章22節以下の故事からも古代のイスラエルの人々になじみ深かった。
(注)別エントリー「試論:『焼き尽くす火』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはルカ12章49節で「わたしが来たのは地上に火を投ずるため」と仰せになられ、万軍の主の預言としてエレミヤ9章6節は「わたしは娘なるわが民を、火をもって熔かし、試す」と記すが、エレミヤ書では「主の御言葉」が随所(5章14節、20章9節、23章29節)で「火」にたとえられる。
たとえ自国の古典文学であっても本文の現代語訳だけで注釈が全くなければ、正しい理解に至るのは難しい。「火」は「主の御言葉」(エレミヤ5章14節等)の喩えであると教わらぬまま「地上に火を投ずる」「聖霊と火による洗礼」等々聞かされても、新約聖書の記述を正確に把握するのは至難の業である。
主イエスは古代のイスラエル人に御言葉をまず仰せになったが、「わたしはたとえを用いて秘密を告げる」(詩編78編2節)とマタイ13章35節にある以上、福音書の中の理解困難な言い回しにつまずきそうになった場合、問題解決の鍵は、旧約聖書の中のヘブライ語特有の比喩や慣用句を知ることである。
(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ5章14節「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同20章9節「主の名を口にすまいと思っても、主の御言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。