マタイ8章で異邦人の百人隊長は、「行け」「来い」「これをしろ」と仰せられた事柄がその通り実現されていくことが信仰の本質であるという趣旨の答えをして、主イエスを感心させた。マタイ1章から2章でヨセフは、幼子イエスとマリアに対して、全てをまさに仰せの通りに実現させたのではなかったか?
【追記】
マタイ8章で異邦人の百人隊長は「行けと言われれば行きます。来いと言われれば来ます。やれと言われればやります」と答え主は「イスラエルでもこれほどの信仰はない」と感心された。マルコ7章の通り、当時のイスラエルでは元々の指示がないがしろにされ指示とは違うことが実行されていたからである。
マルコ7章6節以下で主はイザヤの預言等を旧約聖書から引用しつつ、手前勝手な取捨選択で神の掟をないがしろにする行為を厳しく批判され、それは信仰というよりもむしろ信仰を装ってはいるが実質的には神に対する背信行為なのではないかと、主はファリサイ派の人々と律法学者たちとに投げ掛けられた。
主は、マタイ福音書の最後の箇所において、十一人の弟子たちに指示を与えられたが、それは、【1】すべての民を御自分の弟子にするために出発すること【2】彼らに父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けること【3】弟子たちに命じておいたことの「すべて」を守らせるように彼らに教えることであった。
ヨハネ14章23節において主は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところへ行き、一緒に住む」と仰せになられ、それを受けて一ヨハネ2章4節では、「神を知っている」と言いながら神の掟を守らない者のことを「偽り者」と断定している。
(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ23章で主は、偽りの信仰の特徴について説明されたが、「言うだけで、実行しない」「背負いきれないほどの重荷をまとめて、他人の肩に載せるが、自分はそれを動かすために、指一本貸そうとしない」「そのすることは、すべて人に見せるため」「やもめの家を食い物にする」などにより識別できる。
主イエスはマタイ5章33節〜37節で誓ってはならないと教えられ、また『はい』『いいえ』をはっきりさせなければならず、「それ以上のことは悪い者から出る」と仰せになった。ヤコブ5章12節と二コリント1章17節以下も同様に説き、箴言10章19節は「口数が多ければ罪は避けえない」と説く。
マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。
(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
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