試論:二種類の罪と「永遠の命」を140文字以内で

マタイ12章32節は、主イエスの人間的属性だけを非難した者は赦されるが、主が聖霊によって悪霊を追い出したことを非難する者は赦されない、と記す。一ヨハネ5章16節以下も永遠の死に至る罪と死に至らない罪を分けて論じる。愛の掟に留まることを止める人(ヨハネ15章6節)が永遠の死に至る。

(注)別エントリー「試論:『ぶどうの木』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖霊に対する冒涜』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主は御自分の死と復活をヨナのしるしと表現されヨナ書で海は死の世界を象徴する。ミカ7章19節で海は罪の世界の象徴であり、黙示録20章13節以下で罪と死の象徴である海から死者たちが出されるが彼らは火の池つまり第二の死には至らない。第二の死に至らぬ罪人の世界をカトリックでは煉獄と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録の火の池を140文字以内で」も参照のこと。
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エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」はマタイ7章26節の主イエス・キリストの御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。

マタイ7章21節の主の御言葉「わたしに向かい『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

マタイ7章21節で主イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入る」と仰せになられ、23節やルカ13章27節では入れなくなる理由とは「不法を働く」「不義を行う」ことであると明言されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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