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試論:フィリポの「不信」?を140文字以内で

ヨハネ12章45節「わたしを見ている人は、わたしを遣わされた方(=御父)を見ている」14章7節「わたしを十分に理解しているあなたたちは、既に御父を見ている」8節「主よ、御父をお示しください」10章30節「わたしと父とは一つ」ヘブライ1章3節「御子イエスは御父である神の生き写し」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節『真理』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9954

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

【追記】

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。