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試論:エゼキエル書18章24節を140文字以内で

もしもその人が、過去には咎められるべき点が全くないと神なる主から評価されるほどの者だったとしても、その人が過去に無垢だったことを神に評価されたのを笠に着て、悪人の道へ深入りしていくのならば、その人が過去に無垢であったことなど主によって全く思い出されることはなくその人は死ぬだろう。

【追記】

エゼキエル18章21節「もしもその者が悪人だったとしても、これまでに犯した全ての過ちから離れ、わたしの掟をことごとく守り正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない」同23節「わたしが悪人の死を喜ぶだろうか。むしろ彼が悪の道から立ち帰って、生きることを喜ばないだろうか」。

(注)別エントリー「試論:悪人であっても生きる??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16615

(注)別エントリー「試論:『立ち帰って生きよ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16595

ローマ6章4節は洗礼の意義を「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるため」と記しており、12節以下では「あなたたちの死ぬべき体を罪に支配させ欲望に従属してはならず、また体を不義のための道具として罪に従属してはならない」と戒める。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは命である」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「命」はあらゆる幸福の総称(申命記30章参照)だが、使徒言行録5章20節や一ヨハネ1章1節は主イエスの御言葉つまり福音を「命の言葉」と呼び、フィリピ2章16節も命の言葉を指針とするよう勧める。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244