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試論:「安心できる」を140文字以内で

一ヨハネ2章5節は「神の御言葉を守るなら確かにその人の内には神の愛が実現している。これによってわたしたちが神の内にいると分かる」と記し、3章18節以下は「言葉や口先だけではなく行いをもって誠実に愛し合うならば、それによって自分が真理に属すると分かり、神の御前で安心できる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はヨハネ14章23節で「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところへ行き、一緒に住む」と仰せになり、神の御言葉(御教え)を守ることこそが、神と同じところにとどまることに他ならないと、主は同じ事柄を15章10節でも教えられた。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されが、同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエス・キリストがこの世に来られた意義は、「言」すなわち神の御言葉(御教え)を御自分で人々に仰せになるためであり、「御教えを聞いて自分なりに努力したけれど悪戦苦闘の結果あまりうまくいかなかった」ならまだしも、最初から聞かなかったように振舞うのは、財産を穴に埋めるのと同じである。

一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わない信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマルコ8章21節で「神の言葉を聞いて行う人こそ、わたしの兄弟・姉妹・母」ヨハネ14章23節で「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。御父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところへ行き一緒に住む」と仰せになり、主イエス御自身の御言葉こそが信仰の核心だと御説明された。

(注)別エントリー「試論:厳密な意味での『御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433