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試論:やもめと裁判官を140文字以内で

ルカ18章で主は「やもめと裁判官」のたとえを話されたが、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」(1節)で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」また「これがわたしたちの神に対する確信」と一ヨハネ5章14節は教える。

(注)別エントリー「試論:ルカ18章7節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12491

【追記】

ヨハネ2章のカナでの婚礼の際、3節の母の言葉に対し、主は4節でその真意を測りかねる答えをされた。しかし母は5節で、願いが聞き入れられたことを確信して召し使いたちに言葉をかけた。その理由は一ヨハネ5章14節以下に、「これが神に対するわたしたちの確信」という表現とともに記されている。

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」とし、箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。マタイ7章7節は「求めなさい。そうすれば与えられる」と主の御言葉を教え、ヨハネ14章13節は「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とも記す。

マタイ6章で主は、祈る際の「これ見よがし」的な態度を避けるように人々を戒められ、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」と仰せになった。サムエル上1章13節「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果19節「主は彼女を御心に留められた」。

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」とし、主を畏れる人と無縁な事柄を「傲慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口」とする。これらを行う人の願いはかなえられない。

詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。

コヘレト12章13節は「全てに耳を傾けて得た結論」として「神を畏れ神の戒めを守れ」「それこそが人間の全て」と締め括る。8章12節では「神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になる」と記し、箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」として、傲慢・驕り・悪の道・暴言を吐く口を戒める。

(注)別エントリー「試論:聖霊とは縁遠い人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8993

救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575