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試論:主の御言葉と「信仰義認」を140文字以内で

主イエスの御言葉には御都合主義的な「信仰義認」はない。なぜならマタイ7章21節で「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、神の国に入るわけではない。わたしの天の御父の御心を行う者だけが入る」と仰せになり、25章の最後の審判の箇所ではより詳細に、この件を語られているからである。

(注)別エントリー「試論:ローマ3章『律法の行い』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
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神なる主は申命記5章で御自らイスラエルの民に語り掛けられ、エレミヤ10章は真理の神である主と、偶像の神々との違いを、話すことができるかどうかだと示唆する。「人間にとって耳の痛いことなどいっさい口にせず、黙って人間のわがままを聞いてくれる神が欲しい」という御都合主義が偶像を造った。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:主の御言葉と『火』の関係を140文字以内で」も参照のこと。
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主なる神がシナイ山でモーセに多くの戒めや掟をお授けになっている間、民は金の子牛の像を造りこれを自分たちの新しい神とし、勝手なふるまいをしたが、モーセは怒って掟の板を投げつけた。人々は神からの恩恵だけ望んで戒めや掟には目もくれないが、実は主からの戒めや掟こそが恩恵だとは気付かない。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ12章48節で、「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、わたしの語った言葉が終わりの日にその者を裁く」と仰せになった。ここにおいて、四福音書の中で御自身が実際に仰せになった御言葉を受け入れない者は御自身を拒む者に等しいと、主イエスは宣言されている。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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福音書は、神からの賜物である御言葉を光にたとえ(ヨハネ1章4節)、またタラントンにたとえ(マタイ25章)、主イエスは御言葉を受けた人々を世の光と呼ばれた。穴を掘り一タラントンを埋めるしもべが主人の怒りを買った理由は、それにより御言葉が世に対して光り輝く機会を完全に奪うからである。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948