試論:「主の日」二つの意味を140文字以内で

旧約時代より、民が道を踏み外した結果として蒙る大災厄の到来を「主の日」と表現した(アモス5章18節)。他方、主の御復活が安息日の翌朝に起こったことからキリスト教では記念として、信者が集って祝うべき日を安息日の翌日(日曜日)に移動し、その日をも「主の日」と呼ぶ(黙示録1章10節)。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ユダヤ人が会堂に集まる安息日は創世記2章の通り週七日の最後の日(土曜日)だった。キリスト教では主イエスの御復活つまり「天上の体」の創造が安息日の翌朝(日曜日の朝)の出来事であることを記念し、それを祝うために、信者が集まるべき日を「週の最初の日」(使徒言行録20章7節)に移動した。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
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二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する

「天上の体」(40節)

を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を

「朽ちないもの」(42節)

「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)

「霊の体」(44節)

「天に属する者」(47節)

等と呼ぶ。

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」、22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節は「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『バビロンへの連行』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:連れて行かれるのはどこ?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヘブライ人の『神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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