イザヤ40章11節は「主は羊飼い」と呼び、「小羊をふところに抱き」と記す一方、ヨハネ1章18節は「ふところにいる」という位置関係で御父である神と独り子である御子イエス・キリストとの親密な関係を表現する。同29節では洗礼者が、御子イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と呼ぶ。
(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『ふところ』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
ルカ3章22節「聖霊が鳩の姿で降(くだ)り、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」ヨハネ12章28節「イエスが『父よ、あなたの栄光を現わして下さい』と仰せになると、『わたしは既に栄光を現わしたが、再び栄光を現わそう』という声が天から聞こえた」。
主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。
(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ5章20節は神の御子が来られて真理である方(御父である神)を知る力を与えられたとして信者は御父と御子の内にいると記し、御父と御子イエスを真理である神また永遠の命と説く。同6節は聖霊をも真理と記し5章全体として御父と御子と聖霊の御三方を真理と呼んでおり、ただ一つの神とする。
(注)別エントリー「試論:『真理の神』『三位一体』を140文字以内で」も参照のこと。
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