試論:「ヤイロの娘の復活」を140文字以内で

主はマルコ5章で少女を生き返らせたが、マタイ9章23節以下では既に笛吹き等の葬儀の準備に集まった人々がいて「少女は眠っているだけ」という主の仰せを嘲笑った。主はルカ20章38節「神は生きている者の神。全ての人は神によって生きている」の通り少女を生き返らせ、御自分の神性を示された。

(注)別エントリー「試論:『信じて救いに入るため』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『あなたがたのため』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はマルコ5章でヤイロの娘を生き返らせた後、食べ物を彼女に与えるように仰せになった。これは、後に御自身が御復活されて弟子たちの前に御出現になった際(ルカ24章)に、一切れの魚を持って来させ食べられたことと同じで、亡霊を見ているわけではないことを人々に理解させるための仰せであった。

主イエスは荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑された際「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの御言葉で生きる」と答えられた。「神の御言葉」とはヨハネ1章1節の通り主イエス御自身の称号であり、人間を生かす者は「神の御言葉」及び「命」(同14章6節)を自称される方である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『命の木』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
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