試論:「耳をふさぐ」を140文字以内で

使徒言行録7章57節はステファノの言葉に敵たちが自分の耳をふさいだと記す。詩編58編では「耳をふさぐ」(5(4)節)は、神に逆らう者(4(3)節)の象徴的仕草で、敵たちは、自分の良心がステファノこそ神の証人だと「見た(悟った)」(黙示録11章12節)にもかかわらずこれを拒絶した。

(注)別エントリー「試論:『目で見る』『耳で聞く』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7352

(注)別エントリー「試論:聖書の『見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11440

【追記】

エルサレムの監督ヤコブは古代の伝承では、普段からエリヤと同じ身なりだったが、干ばつに際しエリヤのしるしを行い(列王記上18章、ヤコブ5章、黙示録11章)、逮捕後に神殿の高所から突き落とされ足を負傷したが絶命せず、ステファノと同じ遺言を口にし、立ち上がろうとして棍棒で撲り殺された。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

使徒言行録1章に十二使徒の二人のヤコブが登場するが、12章でヨハネの兄弟ヤコブが殉教した後、特別の注釈もなくヤコブという人がエルサレムで重責を担い続けることが叙述される。消去法で考えれば彼はアルファイの子の方で、エルサレム教会の指導者だった主の兄弟ヤコブと同一人物とも見なしうる。

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451