聖霊の働きか否かを識別する

主イエスはマタイ4章24節と同17章15節で、てんかん(けいれん、ひきつけ)の人々を治癒の対象とされた。急に体をブルブル(ガクンガクン)させて白目を剥いたり、呼び掛けに応じなくなったり、口から泡を吹いてひっくり返ったり等が見られれば、当然、聖霊の働きでなく救急医療の対象に当たる。

イザヤ11章2節以下とガラテヤ5章22節以下では聖霊による賜物について列挙されるが、そこにはいわゆる「異言(諸言語〔の賜物〕)」も「預言」も含まれていない。「預言」にも真の預言者と偽預言者が存在したように異国の言語らしきものを話し始めた人がいたとしても本物とは限らないからである。

いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関して、パウロは一コリント12章から14章において、それを「解釈(通訳)する人」の存在と重要性を繰り返し強調している。14章28節では、その場に通訳(解釈)できる人が皆無なら、語る人は教会の中では沈黙しているようにと強く命じている。

一コリント14章26節以下でパウロは、いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関し、「語る人」と「解釈(通訳)する人」がいて初めて成り立つと記す。従って、どの言語か全く分からない何事かが話されても、その場に通訳(解釈)できる人が皆無ならば、聖霊に由来するとは認められない。

パウロは一コリント14章33節で神は混乱(無秩序)の神ではないと記し、同30節で集会中に複数人が同時並行的に言葉を発することを禁じ37節で混乱は主の流儀ではないことを示唆した。ヨハネ17章11節等で主イエスが強く願われ使徒言行録4章32節で実現した、「一つ」に違反するからである。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

一コリント12章以下でパウロは霊的な賜物に関し論じた。14章33節は「神は混乱(無秩序)の神ではなく協調(平和)の神」と説き、集会中の発言は順番(27節、40節)になされるべきで複数人が別々の事柄を同時並行で語ることを禁じ(30節)、それは「主の命令」(38節)であると厳命した。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

イザヤ11章では聖霊の賜物として知恵・識別・思慮を挙げ、またガラテヤ5章23節では節制を挙げる。従って例えば詐欺に引っ掛かったり、貴重品を紛失したり、交通事故を起こしたり警察に違反を指摘されたり、多くの飲食物への執着を断ち切れないならば、常識的に判断して聖霊の介在は否定的である。

ルカ1章35節以下では、マリアに聖霊が降臨され彼女が神の御独り子を身籠るという事柄が告知された。従って《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節以下)すなわち《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》がマリアの内面をあふれんばかりに満たしていることには、疑問の余地などない。

パウロは一コリント14章33節で神は無秩序の神ではないと説き、40節では全てを秩序正しく行うよう勧め、30節で複数人が同時に口を開くことを禁じる。従って「ある人々は互いに別々の事柄を語り始め、別の人々は歌い出し、また別の人々は踊り出す」ならそれは神の霊とは全く関係ない現象である。

主イエスはさまざまな病気に対し奇跡的な治癒を行われたが、病人に医者が必要であることは否定されない(ルカ5章31節等)。シラ書38章は、病気になった際に主に治癒を祈り求めることを勧める(9節)が、それと共に医者の手を借りることも勧め(12節)治癒に医者が必要な場合もあり得ると説く。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人と宿屋』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13394