主イエスはマタイ6章31節以下で日頃の衣食について過度に頭を悩ませることを戒め、少しでも神の国と神の義について思いを馳せるように勧められた。主は7章9節以下で同じ議論に戻られ、神の義とは「自分が他の人からしてもらいたいことなら全て、自分から他の人にする」ことであると、強調された。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はマタイ6章33節で「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになった。神の国に入るためには「神の義」を自分のものとする必要があり、その比喩として「門」(同7章、詩編118編19節参照)や「礼服」(マタイ22章、詩編132編9節参照)と表現され、旧約の民が熟知する詩編に、言及された。
(注)別エントリー「試論:『神の義』『門』『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ6章34節「その日の苦労はその日だけで十分」は有名である。ただし「苦労」と日本語訳されるギリシア語には「悪」「災難」の意味合いがあり、全てを失った放蕩息子が回心し父親の許への帰郷を思い立ったのと同様に、主は第一に「神の国と神の義」(33節)への回帰(回心)をお勧めになった。
(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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主は「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったが、ルカ10章では自分を「義化」(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対して、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっていることをお教えになった。
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:隣人愛と『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
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