「ぶどうの木」「実」って、何のこと?

主はヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれ、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るよう手入れをなさる」と仰せになった。ヤコブ3章でも17節と18節に「実」が登場し、知恵・純真・温和・優しさ・従順・憐れみ・義・平和が特徴であることを説明する。

主イエスはヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれるが、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るように手入れをなさる」と仰せになり、ガラテヤ5章22節以下でパウロは「実」の具体例を、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制と列挙した。

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

御復活の主はルカ24章47節で「罪の赦しをもたらす悔い改めがあらゆる国で宣べ伝えられる」と仰せになったが、3章3節では洗礼者が罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたと記し、のみならず同8節では悔い改めにふさわしい実を結べと命じており、10節以下は具体的な指示をも記す。

主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストにならい赦し合うよう勧める。

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主はマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになったが、補足するように一ヨハネ5章3節では「神の掟は荷が重い(=難しい)ものではありません」と説明し、その前の部分では「神を愛することとは、すなわち神の掟を守ることです」として主がお定めになった「隣人愛の掟」にやはり言及する。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

マルコ12章の律法学者との対話において、主はレビ記19章18節の隣人愛の掟を、「最も重要な掟」の第二とされた。最後の晩餐の際(ヨハネ13章以下)、主イエスは隣人愛の掟を「新しい掟」「わたしの掟」としてあらためて授けられ、愛の掟を守ることこそが御自分の弟子である証しだと教えられた。

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

主はマタイ11章28節で「わたしの許へ来なさい。休ませてあげよう」と仰せになったが、ここで主は、御自分が詩編23編2節等で言及される「憩いをお与えになる主」に他ならないとほのめかされた。様々な事柄への執心で自縄自縛に陥っている人々の心に、主の清い御言葉は気分一新を促すからである。