主はルカ18章9節以下で「他人を裁くな」をたとえで教えられた。他人を引き合いに出して自分の正しさを並べ立てた人の「祈り」は単なる自画自賛の連続に過ぎず、そこにへりくだりはなく、全く「祈り」として体を成さなかった。神の御前で何の言い訳も一切せずにひたすらへりくだった人が義とされた。
(注)別エントリー「『盗賊さえ楽園に達した』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8383
(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182
【追記】
ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。
ルカ18章9節以下で、主イエス・キリストは、自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人々に対し「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえで戒められ、聖パウロもローマ12章で「自分を過大に評価してはなりません」(3節)、「自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」(16節)と戒めた。
(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360