主はマタイ11章28節で「わたしの許へ来なさい。休ませてあげよう」と仰せになったが、ここで主は、御自分が詩編23編2節等で言及される「憩いをお与えになる主」に他ならないとほのめかされた。様々な事柄への執心で自縄自縛に陥っている人々の心に、主の清い御言葉は気分一新を促すからである。
【追記】
ダビデは詩編38編5(4)節で、自分の過去の罪悪を「重荷」と呼び、以前の過失の記憶が神の御前で良心を責めると歌う。主イエスはマタイ11章28節で「重荷を負い疲れた人はわたしの許へ来なさい。休ませよう」と仰せられ、「自分は悪くない」と開き直る人以外は救いの対象である旨を宣言された。
主はマタイ11章28節で「疲れた者はわたしの許へ来なさい」と仰せになったが、9章36節の「群衆が飼い主のない羊のように弱り果て打ちひしがれている」を踏まえれば、この「疲れ」は、神に救いを求める人(詩編69編2節)が「叫び続けて疲れ」(4節)の疲れをまず指しているということになる。