ガラテヤ5章16節以下は、人間に由来する事柄を「肉」(創世記6章12節、ヨハネ1章14節)、神に由来する事柄を「霊」と表現し、各々に関係する諸悪と諸徳を説く。一コリント3章は、主に忠実に従う人を「霊の人」、信者を自認してはいても御旨からは程遠い人を「肉の人」「ただの人」等と呼ぶ。
(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『肉の体』『霊の体』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。
ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。
古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。
主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。
主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、10章25節では「復活」「命」とも自称された。
(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
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