試論:やはり「区別はない」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

【追記】

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、「わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない」という意味である。

マタイ22章14節の「選ばれる人」とは、神からの招きに忠実に応じて「神の掟を守り通す人」(黙示録12章17節)である。隣人に対して憐れみ深い人は自分も神の憐れみを受ける(マタイ5章7節)。一人一人が隣人に対して取るのと同じ態度を、神も一人一人に対して返される(ルカ6章38節等)。

黙示録7章9節は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」が御父と御子を称える光景を記す。イザヤ56章1節は、正義を守り恵みの業を行う人々、すなわち、主が望まれることを選んだ(4節)人々に、救いと恵みの業が訪れることを預言する。

ヨハネ17章3節で主は「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなた(=天の御父)とあなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ること」と天を仰いで話されたが、関連して一ヨハネ2章3節では「知る」とは《神の掟を守るという経験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神への愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5413

(注)別エントリー「試論:『神への愛と神からの愛』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5873