マタイ5章48節で主は、天の御父が完全であられるように各自も完全な者となるよう勧められたが、憐れみ深さという点で「完全」を目指すべきことがルカ6章36節では説明されている。さらに同40節の後半で、福音の教えに従って自分自身を矯正し続ける者は「完全」まで到達できると主は確約された。
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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【追記】
マタイ5章48節では「天の父が完全であるように、完全な者となりなさい」と説く。この場合の「完全な者」とは、レビ記19章2節では「聖なる者」、ルカ6章36節では「憐れみ深い者」であり、「完全」という表現でも人間に実行不可能な無理難題ではない(一ヨハネ5章3節、マタイ11章30節)。
(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ5章48節の「あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい」の「完全な」に当たる原文のギリシア語は、古代のギリシア語訳創世記6章9節でも用いられている。この語に同節で対応する原文のヘブライ語は新共同訳では「無垢な」という日本語で表現されている。
マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。
「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。
(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
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《体も家も自身にとっての住みか》と考え両者を重ねる概念はヨブ4章19節に見られるヘブライの世界観で、ヨハネ2章19節の主の仰せ「三日で建て直す」や二コリント5章9節と関連する。ヘブライ人は人間それ自身をも「家」にたとえた(マタイ12章やルカ11章の「汚れた霊が家に戻って来る」)。
(注)別エントリー「試論:『さらに完全な幕屋』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。
(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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