試論:「悪人と張り合うな」を140文字以内で

主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。

【追記】

マタイ5章39節の原文の表現を調べると、主が禁じたのは悪人と同じ次元(行為や目的)の報復や応戦であり、逃れる手段があれば用いてもよく(ヨハネ8章59節)言説による反論もよい(同18章23節)。もちろん女性が暴行から逃れる目的で男性に抵抗するのもよい(同じ目的の応戦に該当しない)。

ヨハネ18章で主が逮捕されて大祭司のもとで尋問を受けた際、「返事の仕方」のことで大祭司の「下役」に難癖をつけられ、主は平手打ちを受けた。もちろん主は不当な暴力に対して暴力で返すことなどなさらなかった(マタイ5章39節参照)が、不当な言い掛かりに対して主張すべき事柄は主張なさった。

主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。

モーセの律法には「目には目」という表現が登場するが、これはあくまで公的な裁判における刑罰の基準を示すものであって、その目的はイスラエルの民に悪事が蔓延するのを防ぐ(申命記19章19節以下)ためであり、私的な復讐の基準ではなく元来、復讐は律法で許されていない(レビ記19章18節)。

主はヨハネ3章20節以下で「悪を行う者は、自分の行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」「真理を行う者は、光の方に来る」と仰せになり、マルコ7章21節以下では「淫行、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別」等を、「悪」の代表的な例として列挙された。

ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5051

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」と弟子たちを呼ばれたが、その理由について主はヨハネ8章12節で「わたしは世の光」と宣言された上で「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光であった」と記す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わない信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586