試論:「愚か者は母を侮る」を140文字以内で

箴言15章20節「愚か者は母を侮る」10章1節「愚かな子は母の嘆き」23章22節「母が年老いても、侮ってはならない」24節「知恵ある人の親は、子によって楽しみを得る」出エジプト20章12節「あなたの父母を敬え」ヨハネ19章27節「イエスは『あなたの母です』と弟子に仰せになった」。

【追記】

古代においても助産婦(助産師)が出産に介在していたことは創世記38章や出エジプト記1章に記され、エゼキエル16章4節は古代の新生児処置を複数列挙するが、ルカ2章7節は主の御降誕に際し、布にくるみ寝かせたことだけを記して他の処置や助産婦の存在には言及せず、超自然的な出産を示唆する。

(注)別エントリー「主の御降誕に助産婦が介在しなかった意味とは」も参照のこと。
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マリアは処女のままで(ルカ1章34節)、神の御独り子を超自然的に妊娠(処女懐胎)したが、ルカ2章7節の「初めての子を産み、布にくるみ飼い葉桶に寝かせた」という記述から、助産婦の介在なしでマリア自身が神の御独り子を取り上げた超自然的な出産であった、と捉える方がむしろ蓋然性が大きい。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

黙示録12章やヨハネ19章25節からカトリックでは聖母を神の民の母と捉える。他方ガラテヤ4章26節では、「天のエルサレム」を神の民の母と記す。従って、象徴的・神秘的な意味で聖母は、神の都市である天のエルサレムと同一視され、「天の門(古代人にとって門は都市の象徴)」とも呼称される。

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女」の発言を否定しておらず、逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5517

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
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(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706