試論:「奇跡よりも重要なこと」を140文字以内で

一ペトロ2章の冒頭では、霊的な成長とは悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を捨て去ることと示唆し、使徒言行録8章では、魔術師シモンが聖霊のしるしを金で買おうとしてペトロに非難された。主イエスもマタイ7章22節以下で預言や奇跡や悪霊を追い出すことより悪を行わないことが重要と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『幼子のように』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主イエスはマルコ4章26節以下の「種」のたとえで信仰の成長をお教えになったが、ヨハネ3章では同様の事柄をニコデモに別の表現で御説明され、同章8節は聖霊を「風」と表現する。同章とマルコ4章を比較すると、種が芽を出して日々ゆっくり成長するように聖霊は静かに働き続けると示唆されている。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
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聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
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パウロは一コリント14章33節で神は混乱(無秩序)の神ではないと記し、同30節で集会中に複数人が同時並行的に言葉を発することを禁じ37節で混乱は主の流儀ではないことを示唆した。ヨハネ17章11節等で主イエスが強く願われ使徒言行録4章32節で実現した、「一つ」に違反するからである。

(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『混乱の神ではない』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『パンと御言葉は不可分』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌う際、以前から学んでいたはずである。

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826