主イエスは「十分の一」という献金を命じておらず新約聖書にこの制度は存在しない。それどころか旧約聖書にも存在せず旧約聖書で「十分の一」はあくまで現物(物納)であり「献金(貨幣)」ではない。聖書に全く根拠がない献金を、聖書に根拠があるかのように言い立てる行為は、いかがなものだろうか?
(注)別エントリー「試論:二ペトロ2勝の『偽教師』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
マタイ17章は「魚と銀貨」の話で、主イエスの時代の「神殿税」が一人当たり銀半シェケル(出エジプト記30章15節)であり銀貨一枚で二人分だったことを記す。「十分の一」は「献げ物」(マタイ23章23節)であって、それは「土地から取れる収穫」(レビ記27章30節)などの「物納」による。
旧新約聖書には、貨幣で納める「神殿税」そして「神殿への献金」という制度はもちろん存在するし、またそれとは別に、現物(貨幣以外)で納める「十分の一の献げ物」という制度も存在する。ただし、貨幣で「十分の一」を「献金」させる制度は聖書には存在しない。「十分の一」は、聖書では物納である。
主イエスはマタイ23章で律法学者とファリサイ派の人々を厳しく批判し続けられたが、その理由の筆頭に上げられるものは「言うだけで、実行しない」(3節)であった。ここでは、手前勝手で御都合主義的な「信仰義認」を主が否定されていることが歴然としており、マタイ7章21節以下でも同様である。
(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『信仰義認』なる幻影を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ福音書の最後で、命じられた事柄は全て守るべきだと全ての民に教えるよう仰せられた。「全て」を強調された理由はパウロが二テモテ4章3節以下に記す通り、自分の思い込みを基準に人々は、自分が気に入った御言葉だけを好き勝手につまみ食いしながら、厚顔にも信者面するからである。
(注)別エントリー「試論:主イエス不在のキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『教えに耳を傾けない人』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ12章37節「あなたは自分が口にした言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる」5章22節「兄弟に『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」7章21節「わたしに『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではなく、天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」。
(注)別エントリー「試論:『新たに生まれなければ』を140文字以内で」も参照のこと。
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エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?
(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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神なる主は申命記5章で御自らイスラエルの民に語り掛けられ、エレミヤ10章は真理の神である主と、偶像の神々との違いを、話すことができるかどうかだと示唆する。「人間にとって耳の痛いことなどいっさい口にせず、黙って人間のわがままを聞いてくれる神が欲しい」という人間の我欲が偶像を造った。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:主の御言葉と『火』の関係を140文字以内で」も参照のこと。
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