試論:黙示録12章の「女と竜」を140文字以内で

黙示録12章の女は5節で、諸国民を鉄の杖で治める男の子を産んだ。かつてモーセは神の杖を槌として用い岩を打ち砕いた。エレミヤ23章29節は御言葉を、岩を打ち砕く鉄槌に喩える。故に黙示録の鉄の杖も御言葉の象徴的表現で、男の子は「神の御言葉」主イエス・キリスト、女はその母マリアを指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
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黙示録は古代のヘブライの世界観に従い人間を「土の器」(2章27節)と表現し、さらにそれを踏まえ「諸国の民の上に立つ権威」(同節)を「鉄の杖」(同節、12章5節)に喩える。12章で「鉄の杖」は神の御独り子たる主イエスの王権を象徴し、最後までイエスに忠実だった人々は主の王権にも与る。

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『女』と『残りの者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
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四世紀後半、聖ヒエロニムスは誰よりも、主の御降誕後のマリアとヨセフの終生童貞を頑強に主張した。ヘブライ語聖書の翻訳に従事していた彼は、「いったん神にささげられたと定まったものを後から人間が自分の都合で私物化する行為は、ヘブライ人にとって重大な罪悪である」と熟知していたからである。

(注)別エントリー「試論:古代イスラエルの兄弟姉妹を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
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古代のイスラエルでは、一度、神にささげられたと定まったものを後から人間が自分の都合で私物化する行為は、神に対する重大な罪とみなされた(サムエル上2章、15章等)。ヨセフは出産後のマリアを「知る」ことがなかった。処女懐胎時に妻は既に「聖別」されていると、彼が認識していたからである。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
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カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の都市』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『偉大なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
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主の養父をマタイ1章19節はディカイオスと表現するが、古代ギリシア語訳ハバクク2章4節はディカイオスを高慢な者と対置する。主が「人の子は仕えるために来た」(マタイ20章28節)と仰せになり、聖母が「主のはしため」(ルカ1章38節)を自称する以上、ヨセフのへりくだりは必然と言える。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『高慢は破滅を準備する』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ18章の有名な「陶工と粘土」の話にある通り、「土の器」(二コリント4章7節、黙示録2章27節、哀歌4章2節、イザヤ45章9節)とは、人間〔の特に脆さと弱さ〕を表す表現である。古代のヘブライ人の世界観(創世記3章19節参照)では人間の肉体は土から取られて土に返る定めにある。

詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。

主の御言葉はエレミヤ23章29節の啓示では「岩を打ち砕く〔鉄〕槌」にたとえられた。出エジプト記では神の杖(4章20節)もまた、「槌」として岩を打ち砕く(同17章5節以下)。故に黙示録の「〔土の器を打ち砕く〕鉄の杖」(2章27節、12章5節)は、主の御言葉を象徴的に表す比喩である。

ヨブ19章2節で、自分を尋ねて来た友人たちに対しヨブは、彼らの言葉が自分を打ち砕くと答えた。エレミヤ23章29節で主は「わたしの言葉は岩を打ち砕く鉄槌のようだ」と仰せになった。黙示録2章27節の「土の器(=人間)を打ち砕く鉄の杖」とは実は「神の御言葉」の比喩の一つであると分かる。

エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか」を踏まえれば、ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずる」の「火」は「神の御言葉」を指す。エレミヤ23章29節「わたしの言葉は岩を打ち砕く鉄槌のようではないか」を踏まえれば、黙示録2章27節「鉄の杖」も「神の御言葉」を指す。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は心を燃やす火』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ13章34節以下に「これら全てをイエスはたとえで群衆に語られ何事もたとえを用いずには語られなかった。それは預言者の啓示が実現するためだった。『わたしは口を開き初めの時からの秘密をたとえで語る』(詩編78編)」とある以上、「字義通りの解釈」を強調するのは不自然で眉唾物である。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人間をとる漁』のたとえを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:動かし難い物の比喩『山』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『山』と『高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『水と根』を140文字以内で」も参照のこと。
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