試論:「剣」と「言葉」を140文字以内で

主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に剣を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はマタイ10章37節で、自分より両親や息子や娘を愛する者は自分にふさわしくないと、仰せになった。ここで主は、別に両親や子供たちを粗末に扱うことを勧められたわけではない。ただ主は直前に、剣をもたらすために自分は来た(34節)と仰せになった。剣は分断(25章32節)を象徴している。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:洗礼者ヨハネと最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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もちろん誰一人として、最後の審判で家族が分断されることなど望んでいるはずもない。既に旧約聖書の申命記において、家族で主の御言葉を学ぶことが強く推奨されている(6章6節〜9節)。それは主のおぼしめしに合致することであるのと同時に、家族全員を最終的な幸福(永遠の命)に導くからである。

(注)別エントリー「試論:『教えが授けられた理由』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:子供に教える行為の重要性を140文字以内で」も参照のこと。
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