主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節でディカイオスと呼ばれる。25章の最後の審判で困り事をディカイオスが親身になって解決する相手はエラキストス(最も小さい者)と呼ばれる。この相手は周囲からの配慮・関心・興味・評価の点で「最も小さい」者、つまり誰からも相手にされなかった者である。
(注)別エントリー「最後の審判における『最も小さい者』とは」も参照のこと。
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【追記】
マタイ1章19節はヨセフに対してディカイオス(正しい人、義人)というギリシア語を用いる。この語は同25章の最後の審判にも登場し(37節、46節)、相手の困り事を親身になって解決する人を指し、相手の弱みに付け込んで神の御目に適わぬことを行うような者では絶対になかったことを示唆する。
(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
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マタイ1章19節は、ヨセフはディカイオス(正しい人、義人)だったので婚約者のことを表沙汰にするのを望まずひそかに縁を切ろうとしたと記す。ディカイオス(同25章37節、46節)とは、隣人に悲しい思い・はずかしい思いをさせないために、努めて忍耐強く配慮してあげようと骨を折る人である。
マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。
マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。
ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740
(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750
(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246
主はマタイ6章33節で、まず神の国と神の義(ディカイオシュネー)を求めるよう教えられた。1章19節はヨセフを義人(ディカイオス)と呼ぶが、25章の最後の審判の箇所(37節、46節)でディカイオスとは永遠の命を確約された存在であることが説明されており、ヨセフが模範的存在だと分かる。