主イエスはマルコ4章25節で「〔他の人を赦す心を〕持っていない人は、一度は持っていたもの(=神からの赦し)までも、取り上げられる」と仰せになり、マタイ18章の「仲間を容赦しない家来」のたとえで御説明された。「各自が心から兄弟を赦さないなら、天の御父も、各自に同じくされるだろう」。
(注)別エントリー「試論:『持つ人は更に与えられ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11656
(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390
(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305
(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300
(注)別エントリー「試論:憐れみは『上から目線』かを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5471
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346
【追記】
主イエスはマタイ18章21節以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」で、一人一人が他人を裁くその同じ基準(了見)で、神もまた一人一人をそれぞれ裁かれることをお教えになった。これは、基本的には7章で既に仰せになった事柄であり、「あなた自身が裁かれないようにするためにも、他人を裁くな」。
(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『慈悲は裁きの上にある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7694